Mercedes's Diary -3ページ目

マンションの友人はロバ

 昨日街で偶然友人に会った。

友人と言っても相手は私よりかなり年上で、今では優雅な年金生活を楽しんでおられるご婦人。

昔で言うところの”はいからさん”で、誘われたお茶は 今私の街の”角を曲がればSB”といわれる程あのスタバ。

 彼女は私に幾つかの紅茶の種類を言い「どれにする?」と聞かれる。

自分はもう決まっている様子だ。

彼女は今日のコーヒーをオーダーしてテーブルで待っている私の元へトレイに乗ったコーヒーと私のための紅茶を運んでくれた。


 彼女は今街の中心の大きな駅の近くにマンションを購入して住んでいる。

彼女は私に、彼女のうちへ遊びにおいでと誘ってくれた。

「あなたに合わせたい友達がいっぱいいるのよ。あのマンションね、ロバの先生が何人も住んでるの」

・・・・・・・ロバの先生・・・・・・・


もちろんそれがすぐに、大手の英会話スクールの事と理解できたが、彼女は何度も続ける。

「ロバの先生は若い人が多いのよー!知ってた?」


彼女の耳には、彼ら大手英会話スクールの先生が、自分の職場の名前を言うのを聞くと

それが”ロバ”に聞えるのだと思う。

私は迷ったが、『実はロバではなくて、○バ何ですよ』と彼女に言った。


彼女は笑いながら言った。

「そう?でもみんな分かって返事してくれるわよ」


余計なこと言ったかなぁ・・・・・と思いながら帰宅した夏の終わりの夕刻だった。

ベルンへ 愛を込めて

Bern

 ヨーロッパの洪水は各地を襲っている。

昨夜のニュースで世界遺産に登録されているスイスのベルンの被害が報告されていた。

私が大好きなベルンの細い、両側にお土産屋さんが並ぶ道は人の高さ以上に水が上がって来たらしく

私が覚えているあの、ベルンではなかった。

私を全く観光客にしたベルン。

一日も早い復興を願っている。


凍える寒さの中で風邪を引いて、ホテル滞在を決心し

駅で、パネルの写真のホテルを見ていると

100歳くらいの紳士が杖をつきながら、話し掛けて来た。

「お嬢さん、ホテルを探しとるのかな?このパネルのホテルは、夜中に列車で着いた者たちの為のものなんだ。あそこの2階へ行ってごらん。インフォメーションがある。そこで手ごろなホテルが見つかる。

このパネルのホテルはとても高いんじゃ。さぁ、2階へ行ってみなさい」

このエピソードの場所はベルンだった。


「スイスは良い所だ、スイス人がいなければもっと良いのに」


こう言う人を知っている。

私には、どの国にも、良い人もいれば、そうでもない人もいる。

陽気な人もいれば、ネガティブな人もいる。

よく話す人もいれば、寡黙な人もいる。

どのくらいの人に会って、「スイス人がいなければ、スイスが良くなる」と言えるのだろう。

私には、日本に住んでいてさえ、「日本人は親切だ、でも自己中」なんて言えない。


何とか以前の姿に戻してもらいたい。何とか復興してもらいたい。

現在私にも出来る事を考えています。

あの実に愛らしいアーケードの道がまた沢山の観光客達が歩き出しますように、一日も早い復興を。


そして、私が好きなスイスのジャンプの選手達はみんな、大丈夫だろうか・・・・・。

いつになく、不安がよぎります。

皆、元気でいますように。


今回の台風11号で被害にあわれた方々にお悔やみ申し上げます。

小さな声で 「蘇州夜曲」

 知り合いの友人達のライブに出掛けた。

彼らに出合ったのは2年前に冬の事。

いつもは外国人ばかりが出るライブハウスで、彼らは日本人として初めてステージに立った。

彼らが歌い始めた瞬間私は「わぁー」と小さくつぶやき、それは次に涙を誘った。

彼らが歌い始めた曲は「蘇州夜曲」だった。

私が小さな声で彼らと一緒に歌っていると、隣にいた友人のイギリス人が聞く。

「この歌知ってるの?」

私は答える。

「私くらいの年齢ならば、かろうじて」

イギリス人の友人は彼らを大変気に入り、自分野バンドの前座をして欲しいから、その事を彼らに話して欲しい、と私に頼んだ。

その事が彼ら 英一郎、そして良一 との出会いとなった。


英一郎さんは武蔵野美大在学中からバンド活動をしており、現在は私の住む隣の市で、陶芸をしながら

音楽活動をしている”歌う陶芸家”。

良一さんは大学院卒業後、本格的に音楽活動を開始、今年9月待つには拠点を東京に移す。

良一さんの演奏ジャンルはブラジル音楽。


今回久しぶりに「蘇州夜曲」を聴いて、私は歌詞を調べてみた。

それは実にきれいな日本語の詩だった。

あー日本語の響きはなんと美しいことか・・・。



英一郎 そして良一


蘇州夜曲      西条八十/ 服部良一


君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の唄
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか柳が すすり泣く

花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映(うつ)した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも

髪に飾ろか 接吻(くちづけ)しよか

君が手折(たお)りし 桃の花

涙ぐむよな おぼろ月

鐘が鳴ります 寒山寺(かんざんじ)



注:今回歌詞を検索すると、一番の歌詞「恋の船唄 恋の唄」のところが実は

「恋の船唄 鳥の唄」と言う事が本当だと言う事が分かった。

書いた本人もなぜ変わったのか分からない、との事だった。

ここでは「鳥の唄」の方を記載した。

私の街の夕暮れ

sunset 2005 8.14

 7時30分ごろの空です。

きれいな夕暮れが撮れたので、久しぶりに載せてみました。


今日は偶然知り合ったミュージシャンのライブを見に街まで出掛けました。

こんな夕焼けを見ながら彼らの演奏を聴けたら

もっとステキだっただろうなぁ・・・・・。


姉の事

 ある日クリスが突然聞いた。

「君のお姉さんってどんな人?」

私は流暢に答えた。

「私の姉は目も大きくて美人で言う事なしって人。昔姉が10代の頃、シャンプーの会社のコマーシャルで

街を歩く女性に後ろから声をかけて『振り向いてください』って言って振り向かせ、シャンプーのボトルを持たせて、恥ずかしそうな女性の笑顔を撮るって感じのCMがあって、姉がそのCM撮りカメラクルーに声をかけたれたの。『振り向いてください』って。そのテープは放送されなかったんだけれど。でもそのくらいきれいだったのよ」


あー私はこの話を何回くらい人に話しただろう・・・・・。

もう一語も狂わずリピート出来るんじゃないかしら・・・。


クリスは聞く。

「だった?じゃ今は?」

私は言う。

「今もきれいよ。でもちょっと痩せたらもっときれいだと思う」

クリスは声を出さずに、うなずく。

私は続けて姉の話をした。

「姉の性格は素晴らしいの。サイコーよ。私もあんな風になれたらなぁ・・・って思うときあるのよね。

ある日、義理のお兄さん、つまり姉の旦那さまね、彼が仕事がイヤになって辞めたいって姉に言ったの。

お兄さんは相談するつもりで言ったらしいの。でも姉の言葉はただ一言。

『イヤなら辞めちゃいなさいよ』

結局お兄さんはその後退職するんだけれど、姉の言葉に”ありがたい”と思ったらしいの。

その後次の会社が3年で倒産。次の会社が今も働いている会社なんだけど

ある日お兄さんはその日が結婚記念日であった事を思い出したのよ。

それで帰りに姉に花束を買って帰宅したの。するとドアを開けて花束を持っているお兄さんを見て姉が一言。

『あなた、会社辞めたの?』

大して驚く様子も無くそう言った姉にお兄さんは思ったらしいわ。

・・・・これは”ありがたい”なんていうのじゃない。天然ってやつだ!・・・・・

それでもお兄さんは姉の性格を、幸せな性格で『僕もあんな風に物事を考えられたら楽だと思う』

と、言い 時々笑いながら、その結婚記念日の話をするの。姉はきれいで性格もイイ!

これが私の姉」

ある日のラグビー観戦

 私がラグビーを夢中で見ていた事の事。

当時勤めていた会社の社長に知り合いの方が時々お顔を見せられる。

その方は私の住む街の中心には、その方のお名前の付いた大きな道路がある。そんな方。


 ある日私は同僚と、週末に見た大学選手権の話しをしていた。

社長と話を終えて帰られようとなさっていたその方が私と同僚の話しを耳にされたのか、お声をかけられました。

「あなた、ラグビーが好きなんですか?」

ラグビーの話しにまるで加わりたい様な、そんな感じの笑顔でのお言葉。

同僚は相手の事を知っているゆえ、すぐに後ずさりしてデスクに付いた。

私はまだ、その方の事を知らなかったので、同じ様に笑顔で言った。

「ハイ、大好きなんです。シーズンが始まるともういつもテレビ観戦です」

するとその方は益々にこやかになられ、こうおっしゃられた。

「じゃ、今度の日曜日の○X市である試合、一緒に行きませんか?私の大学の時の同級生も一緒ですが、大勢で見る方が楽しいですからね」

私は始めて生で見れる嬉しさに、わーぁーと声をあげ、お礼を言って待ち合わせの時間と場所を決めお帰りをみ見送った。

 その後はもう大変。

同僚がこぞってその方がどんな方かいろいろ教えてくれる。

それはとんでもない、今で言うセレブの世界のはなし。

しかし、日曜日の約束は約束。私は同僚に言った。

「でも、約束したし、一応今回は出掛けます。失礼の無い様に気をつけます」


 当日私は15分ほど前から約束の場所に行った。

その方はもういらしていた。

「年寄りはせっかちでね、ハハ」

そんな会話から始まり、その方のご友人と3人でラグビー観戦に出掛け、楽しく観戦し、そして帰宅した。

そしてそれはその後数年続いた。


 ある年のラグビーシーズン中の金曜日、その方は会社に週末のラグビーのチケットを私のために持って来てくださった。

「イヤー、風邪ひきましたよ。参りました。なかなか治らない。日曜日は無理でしょう。面白いカードだけど、うちで見ますよ。2枚持って来たから、彼氏でも誘って観戦してきてください」

いつもの穏やかな笑顔。そして優しい心遣い。

「いつもどうもありがとうございます。残念ながら、今回も1枚で十分です。寂しくなったら、現地で調達いたします。」

私はここ数年のラグビー観戦仲間に軽く冗談を言った。


 当日、ニュースでは晴天ではあるが気温が低いと言っている。

大の寒がりの私は、1人で出掛ける事もあり、 ”今回は行くの、よそうかなぁ・・・” と考える。

しかし、その方に次にお会いした時に、今日見た試合の感想をお話出来たら、楽しいかも、と考え

持っている服を何枚も着込み、カイロやひざ掛け、マフラーなどを持って隣の市まで出掛け

いつも座るバックスタンドの中央辺りに座っていた。

 試合開始15分前、どこからか声が聞える、叫んでいるような声。

「オーイ、やってきましたよー!」

その方といつもご一緒のご友人のお2人でした。私に手を振りながらの叫び声はやはり陽気な声でした。

「風邪が治ったから来ましたよ」

そうおっしゃるその方の横からご友人の方がおっしゃる。

「治っちゃいないんだよ。テレビなんかじゃ見れないヤツなんですよ、こいつは。ハハハ」

私はただただ、笑顔で頷くばかりだった。


 ラグビーはたくさん見た。それもいつもバックスタンドで見た。

いつも解説付きだった。

それは今の私には、宝物の1つの思い出。

ダーティー・トリックの映画化

john mitchell & nixon

 作家ジョン・ジーターが書いた劇作「ダーティー・トリック」が映画化されるらしい。

内容は上の写真からも想像出来るけれど、ウォーターゲート事件のお話。

中心となる人物達は今回は女性達。

当時司法長官だったジョン・ミッチェルの妻マーサはホワイトハウスの隠ぺい工作について

メディアに情報を流していた。

そしてそれを止めさせる為ニクソン政権はあらゆる手段を使ったと言う。

ジョン・ミッチェル《上の写真の一番左)はあの事件で刑務所へ入り、獄中で小説「カンパニー」を書いた。

当時読んでみたが、政治の裏側の話しで、ノー天気な私でさえ

「今となってては新鮮味が無い」などと思ったものだった。

watergate

(事の起こりはこのウォーターゲートビルでの民主党本部進入事件から)


マーサがこの事件で情報を流した相手はワシントンポストのウッドワードら、そしてUPI通信のホワイトハウス記者。

ジョン・ミッチェルの妻マーサをメリル・ストリープ、UPI通信の記者をアネット・ベニング。

当時ホワイトハウス法律顧問のジョン・ディーンの妻をグウィネス・パルトローが演じると言う。

マーサのストリープ、記者ヘレン・トーマスをベニング、そして夫を支え続けたディーンの妻モーリーンにパルトローとは、どの女優さんもイメージを簡単に浮かべることが出来そう。

ニクソン大統領の妻パットを演じるジル・クレイバークだけが、ちょっと細く思えるけれど、以外に見栄えがするのかも。

パットはジョン・ミッチェルの妻マーサを心から嫌っていたと言う。

妻として、夫の側に立つ。どんな状況下であれど。

パルトローとクレイバークは、そんな夫に尽くす妻を演じる。

若い人達は、この女性たちを今、どう見るのだろう。


私自身、この事件にはとても興味がある。

ニクソンに対する感想は、あえて書かないが、これだけは書きたい。

歴代のアメリカの大統領で、IQが高い5位以内にニクソンは入っている。

だからなんだ?と言われたら困るけれど、実はとても頭の良い人だった。

さよなら、ピーター・ジェニングスさん

p・ジェニングス 2

 アメリカABCニュースの看板キャスターピーター・ジェニングスが肺がんで亡くなった。7日日曜日マンハッタンにある自宅で、家族に見守られながらの旅立ちだった。67歳だった。


 私はもちろん彼の”声”が好きだった。

BSで朝世界にニュースを見ると、CNNとは別にジェニングスの「Good evening」の挨拶から始まるABCの「ワールド・ニュース・トゥナイト」が見られる。それはジェニングスの番組だった。

アメリカの友人が言う。

「ジェニングスを見たい為にこの番組を見ている女性も大勢いるわ」

(私は彼の声が聞きたくて彼の番組を見ていた事は友人には言っていない)

彼にはカリスマ性があり、色気があり、誠実だった。

 私はこの4月5日の彼の

「私は肺がんの治療の為、しばらく番組をお休みします」

と言うコメントを友人宅で聞いていた。そして思った。

・・・・帰ってくるつもりなんだ・・・・・

そう思いながら、自分もそれを望んでいることに気付いた。

戦争があれば、その国へ飛び、サミットがあれば、その土地へ飛ぶ。

彼の仕事はスタジオから離れ、あらゆる国へと広がっていた。

そしてその、信頼感のある顔立ちから伝えられる情報を私達は聞き、笑い、涙し、そして考えた。

あの最後の番組から4ヶ月。

この4ヶ月が彼にとって、なっとくの行く4ヶ月であったと、心から願いたい。

 10年以上やめていた喫煙を始める事になったきっかけの同時多発テロ。

インテリジェンスな人なのに・・・・・と思う反面、タフな人でさえ、奈落へ陥れてしまう、あの事件のおぞましさに、声も出ない。


P.ジェニングス


彼は私には、ABCの顔だった。ABCといえばピーター・ジェニングスだった。

お疲れさま、そして、さようなら ピーター・ジェニングスさん。


ラグビーの事、いろいろ。

 ラグビーには”ハドル”が無い!

それが私がラグビーを見始めたきっかけだった。

もちろんラグビーをしている友人もいた。だから先生はその友人になる。

友人は明治出身だったので、私も明治を応援した。

森という選手の存在もあって、明治、釜石を応援したのは当然の事だった。

人に時々聞かれた「なぜ、明治を応援しているの?」

私はいつも答えた。

「まるで私みたいだから。ラインも作らず、『前だ、前に進めーぇ!』と、とにかくそう言っている感じだから」

森選手は型破りな選手だった。

「この人、頭の中に作戦なんか持っているのかしら・・・・・」

そう思った事たびたび。

ある日村上龍がホスト役をする番組「Ryu's Bar」にゲストとして森と松尾が出演した。

松尾は言った。

「森さんいつも『行けー前に行けー!』しか言わない。『無理ですよー』なんて言うと

自分でボール持って『俺が行くー』ってダーッて走って行って、タックルされて倒れてる、脳震盪起こして」

森は当時釜石のキャプテンだった松尾に

「お前もう釜石に引っ越せ。俺が家買ってやる。そしてあそこで凍え死ね」

私はまだこの頃、日本のラグビーしか知らなかった。

そして、ワールドカップラグビーが、とうとう開催される。1987年の事だった。


第1回W杯ラグビーはニュージーランドで開催された。

そして開催国であるニュージーランドのオールブラックスが優勝し、エリスカップを勝ち取った。


当時は南アフリカが強いと言われていたが、アパルトヘイト政策を続けていた南アはW杯の参加を認められなかった。

しかし、強いチームに対戦を挑みたいのがスポーツマンの気持ちだろう。

規則違反と知りながら、当時の、幾つもキャップを持っている選手達が南アの代表チーム、スプリングボクスを相手に熱いゲームを行った。

そしてスプリングボクスと対戦した選手達は全員謹慎処分を言い渡された。

それは分かっていた事だったのだろう、しかし選手達の気持ちは、戦う方を選んだ。

私はそこに、スポーツは政治とは無関係だ、と言う言葉を思った。


私は今も第1回のW杯ラグビーを録画したビデオを持っている。

決勝のビデオのケースには笑顔でエリスカップを高く掲げるカークの写真が貼ってある。


今ではいろんな事が変わっている。

5ネーションズは6ネーションズになっている。

リフティングも許されている。

ユニフォームも変化してきている。

そしてエリスカップは、ヨーロッパを渡った。


その当時、社会人リーグを見ていると、経済も一緒に見えてきていた。

バブルの時代、円高の時代。

鉄鋼は冷え込み、車は円を産んだ。

慶応を優勝させ、「これから選手が天に向かって胴上げしてくれるでしょう」と言った上田監督はその後トヨタを優勝させた。


ラグビーを見ている時、サッカー選手がとてもスマートに見えた。

軽やかに相手を交わし、素早くボールをまわし、そして弾丸シュートでけりをつける。

それでも私は「ラグビーは紳士のスポーツ」と信じていた。もちろん今も信じている。


まとまりの無い文ですが、今思いつく事を書いてみました。





夢のパリ

 パリに行った時の事。

私の目的は14の美術館へ行くこと、その為の旅。

ドゴール空港で円をフランに替え、空港にあるバス停からパリに向かう。

私はバスのチケット売り場で「パリまで」と言って料金を差し出した変わりにチケットを手にする。

それを持って待合室へ行く。

待合室の入り口に初老の男性が椅子に座っていた。

私が彼にチケットを渡すと彼は言った。

「パリへ行きたいのかい?」

白いものが混じった口ひげを生やした彼は私に、温かみのある低い声でそう聞いた。

「ハイ」

私はその時初めて、自分がパリに”行きたい”事に気づいた。

彼は私から受け取ったチケットをしげしげと眺め、そしてわずかに微笑んだ顔を私に向けて

チケットの半券をちぎり、片方を手にして言った。

「そうか、パリに行きたいのか・・・。それは凄いね。さぁ、これを持って。これでパリに行けるよ」


私に特別な思いはなかった、パリへ行くことを夢見ていたわけではなかった。

私は、山の様にある絵画を見たい、ただそれだけがパリへ行く理由だった。

しかし、半券をもらった私の心はときめいた。

・・・・・わぁー、私、パリに行くんだ・・・・・・


彼のニクイ演出に、私は夢を見るような気分でパリ行きのバスに乗り込み

そしてパリ、シャンゼリゼに向かった。